2013/03/10

記憶の継承

東日本大震災が起こって一年後の同じ日、読売新聞の一面にあった文章が忘れられない。
時は流れない。雪のように降り積もる。
人は優しくなったか。賢くなったか。
時は流れるという、でも流れない「時」もある。
時が流れれば思い出になるが、実際に被災された方にとって、あの時間が思い出になってしまうことはないだろう。
そんな社説が一面にぶち抜きであった朝刊でした。
捨てられずに取ってある新聞。


 一面の下の方にある広告欄には"3・11を心に刻んで"という岩波書店の本の広告がありました。

あの凄惨な光景は、画面越しだって心には刻まれたと思う。
でもそれは多分、そのうち忘れちゃうことなんだろうなとも思う。

アーカイヴとかを制作する現場の近くにいるので、記憶の継承とかってキーワードにはなんとなく親近感を覚えます。
実際、授業で東日本の震災の記憶を残すプロジェクトを行いました。
セカンドライフ使ってみたり、いろいろ面白かったんだけど、それは別の話なので置いといて、最近、ほんと当たり前なんだけど、記憶の継承って難しいなってまた改めて思いました。

311,911とかフクシマとかヒロシマとかナガサキとか、数字やカタカナにするとそれは記号となって分かりやすい側面だけを残し、強い印象を持って皆の心に残ります。

そういや3月10日は東京大空襲の日でした。
http://blog.esuteru.com/archives/6969069.html
こんなこともちょいと話題になってましたね。

1月17日は阪神・淡路大震災が発生した日です。
新潟中越地震、宮城県沖地震、北海道南西沖地震、地震だけでも数えだしたらキリがない。
キリがないけど、亡くなっている方がいる災害もあるわけで。
その数の多さで、事の重要度なんか測れるわけない。
でも全部を忘れないようにしたら、毎日がなにかの教訓とすべき日になっていってしまうと思います。

全部は無理だよって正直思います。
[大学新入生にアドバイス] http://anond.hatelabo.jp/20130309133408
ちょうどこんなエントリーを流し読みして、「それ全部やったらそれだけで一周間終わるよ…」って思ったのと似たような感覚。



…30分でブログ書くって思って書いてたらこの時点で30分経っちゃった。
今回は短めにまとめます。

覚えてない人には、頭の片隅に思い出させてあげましょう。
無知でいることは、そのことに何も思わないのであればそれは罪な気もします。
でも知らない人とか、忘れてる人が悪なのかと聞かれればそれも違う気がします。

正義を行なっているのかもしれません。でもそれを行使した瞬間に、なんか違うものになっていってしまうと思います。

なんの話だよ、って感じですが、沖縄戦のことを伝えるために活動している友人とか、アーカイヴ作ってる先生とかが身近にいるので、なんとなく書きたくなりました。
なんかネットとかだと日本人として〜とか言ってる人が多いように見えちゃって嫌だよね。

無関心と戦うのは大事かもしれないけど、それが目的じゃないよってね。
忘れないことによってどうなって欲しいのか、が大事だと思います。
それを考えて、相手に伝えるのが難しいなーって。

なんとなく一人歩きしがちな「記憶の継承」って言葉の重みをもう少し深く考えたいなと思う今日このごろでした

2013/02/15

0215

放置ブログも更新せねば…。
ってくだりで毎回書き始めている気がする。なんか学外展サイトとかから来てくれてる人もいるみたいで嬉しいです。

学外展の詳細はこちら↓
http://diploma2013.wtnv.jp/
土日でラストです。一週間のんびりやって楽しかった。


4年生なので卒制やら卒展に全力だったわけですが、ほんとにいろんなことを感じた、長い長い3ヶ月ちょいでした。
それも終わって、なんとか一息つけたかなという最近です。





卒展の実行委員でもあったので、自分のことの他にも、まわりのことにもいろいろちょっかい出してました。
学内展(大学キャンパスで行う全体の卒展)では、全体で100人くらいの人の卒制を眺めながら、あーでもないこーでもない言いつつ展示会を作っていきました。

もちろんそんなこと初めてだし、人数多いし、学校行事だからいろいろ制約多いし、みんなに心配されながら、それでもかなり満足のいく展示会でした。
一応目標にしていた来場者数にも達して、一安心してます。


今回の展示会では、いろいろ挑戦しました。
プロモーションっぽいウェブサイト、屋外での展示、体育館での展示、そしてそれぞれを一本道でつなぐ導線などなど。

特に展示会の導線については相当苦労しました。

スタジオ(研究室)ごとにさまざまな分野にわたって研究・制作を行なっているウチのコースですが、毎年行われている展示会は、なんとなくばらっとした印象を受けてました。
なので卒制の展示会としては珍しいかもしれませんが、今年はぐるっとキャンパスを一周することで、すべての人の卒制を見ることができる導線を作りました。

スタジオごとの研究分野が少しずつ交じり合い、リレーしながら、インダストリアルアートコースの全体像をふんわり感じてもらえ、そんな環境で作っている作品にもより興味を持ってもらえるという、良い循環になればいいなと思っていました。

実際がどうだったかの検証は行えませんが、来てくださった人が、コース全体に興味をもってもらっていたとしたら嬉しい限りです。


広報はそんなに手数を出さず、DM、ポスター、ウェブサイトの3つを精力的に制作し、広報を行いました。

ポスター
DM

ウェブサイトはこれ↓
http://ia.sd.tmu.ac.jp/ia2013

「+ia」というコンセプトが個人的には本当に大好きで、自分たちのまとまり、コミュニティのある意味みたいなものの一つの答えなのかなと思えています。
コンセプトはぜひウェブサイトの+iaのボタンをどうぞ。


まぁそんな感じで今はぼーっとしてます。

今回ほんとに自分史上で一番体力的にも精神的にも無理しました。
その節は多方面にご迷惑、というかご心配をおかけしました。
助けてくれた人がたくさんいました。

抱え込みすぎだよってつっこみもたくさんもらいました。
正直それには言い返す気力すらないんですが、まぁ結果オーライということで。
自分で考えて動ける人は、分かってて言ってくれてる側だからね、ありがたかった。


とにかく色んな意味で、良い勉強になりました。
ただのイベントとして消化してしまうのではなく、しっかり振り返っていきたいと思います。



でも今は、ちょっとぼーっとしてたいかも。
卒展なんて毎年やってるじゃないって自分でも思いますが、
それでもこうやって自分で自分に乗せていたプレッシャーを、結果としてははねのけられたのが嬉しいです。


来年度は違う頑張り方ができるようになろう。
あと髪切らなきゃ。




2012/12/09

関係を集めて回す

ほったらかしブログ。
ちょいと感じたことをまとめときたかったので更新。


こないだ友達が描いた漫画が書店で発売されてて、買って読みました。

散々探したけど見つからなくて店員さんに聞いて、持ってきてもらった漫画を書店のレジに持って行く時に、なんかこんな体験できるなんてすごいなぁって漠然と思いました。

以前別の友人が本の装丁に、その友達が描いたイラストを使ってもらってて、その時もなんとなーく思いましたが、今回はより深く、なんなのかは分からないけど明確になにかを感じました。



その週の週末にまた別の友達のプロレス興行を見に行きました。
学生プロレスラーが友達にいるんです。
自主興行だったそうなのですが、団体の人もたくさん巻き込みながら、すてきなエンタメをやりきってました。


週明け、新宿で個展が行われていたので見に行きました。写真展。
それもまたまた別の友達。



とんだ友達自慢になっちゃってますが、別段友達が多いわけじゃないと思います。
ていうか全部大学の友達なので。

なんかすごい密度の社会に生きてるなぁって。



あとこういうことが起こると、お金を使うんです。

漫画を買うのにも、プロレスを見に行くのにも、写真展で写真集を買うのにも、少額ですがお金を使います。

そのお金っていうのは、僕はアルバイトしているので、一応自分で稼いだお金なわけで。


なんかそのお金の使い方ってほんとに良いなぁって、すごい良い映画見たあとみたいな、そんな満ち足りた気持ちになります。




全然関係ないけど、とある漫画で、"大人になることはつまらない"って言ってる子供に、登場人物の大人がこんなこと言います。
確かに子供の頃は楽しいことが向こうからたくさんやってくる。
だからいつもいっぱいいっぱい。
でも大人になればそれまで見えなかった素敵な世界に気付くことができる。
自分の心ひとつで楽しむことができる。
いつもただ待ってるだけじゃない。
あー、なんか、大人になってきたのかなぁって、
こういうことにお金を使う、自分の費やした時間が、こんな時間に変わるんだなぁって、その体験に感動しました。





また話がどっかいきますが、そろそろ卒業。
卒業の前には、卒展をやります。

なんかテーマ決めてやりたいなぁって思ってるんですが、こんな体験ができるコミュニティってことをなんとか外に発信したいなぁって思ってます。
素敵な居場所というか、なんだろーなー。

友達の漫画をレジに出した時のなんとも言えない、ただの満足感ともつかない、自分しか知らない世界があるみたいな、あの感覚はなんだろうな。


自分の日常に友達とか、関係が散らばってるような感覚。
見つけて嬉しい、にやにやしちゃう、みたいな。

それがつかめればテーマになるような気がして、こうしてブログ書いて整理してるんだけど、よく分からんなぁ。

言葉にできない感覚だからこそ、良いのかもしれないけど、なんとかテーマにしたいので、夜遅いけど、もう少しがんばろ。

ではでは。

2012/09/30

9月にしたこと

ずーっとほったらかしてたブログ。
10月からは生活が少し変わりそうなのでもう少し更新頻度増やしたい…。

そして卒制が進まない…
でもこないだ少し考えた。いろいろ行ったり戻ったりしながらじわじわやってます。

そして9月やってたこと。
・都現美のコンペ出てきたよ
・友達の展示会のウェブサイト作ったよ
・プロジェクト一応完成したよ
・宮古島行ったよ
・神戸行ったよ
・新潟行ったよ

9月はほんとに学校に引きこもってるかどっか遠出してるかの二択だった…



プレゼン資料
[ BLOOMBERG PAVILION PROJECT ]
東京都現代美術館に建てられたパヴィリオンをつかって、メディア芸術でいろいろするみたいなコンペでした。
コブ作ったり風車回したりしたら公園みたいで楽しいんじゃね?ってな感じで、友人3人で三日間くらいで仕上げて提出したら一応一次は通りました。
その後は箸にも棒にもかからない感じでしたが、いろいろおもしろい体験はできました。
特撮展のタダ券3枚もらったんだけど行く暇あるかな…(・ω・`)





[ START ON AIR! ]
前期をかけてやってたプロジェクトを仕上げてました。
航空宇宙コースで研究しているBWBっていう新しい飛行機の良さを伝えるプレゼンテーションコンテンツです。
ウェブサイトから動画のBGMからなにから全部みんなで作りました。
特にグラフィックデザインを担当して、実装なんかもちょこっとやったりなんだりしてかなりしんどかったですがそれなりに良い物ができました。
これからまた更新する予定なんだけど、良かったらいいねしてね笑




[ スペースデザインスタジオ展 ]
スペースデザインのスタジオの展覧会のウェブサイトを制作しました。
展示会にも行ったよ。めっちゃ良かった。ちょっと悔しい。
サイトの制作は、少しのチャレンジをしないと意味ないので、いつもはしないようなエフェクトや写真をうまく使うようなデザインにしてみました。ミニチュア使ったりしてしゅっとしてるけどかわいさを残したビジュアルにしました。

ちょっと製作過程を紹介。
アイデアの種。アクセスとかを実際の地図にピンを刺して、
それを写真に撮るだけとかおもろくね?みたいな実験図。
んでトップページも写真の一枚絵にしよっかなーって感じになって
家でミニチュアを作って実験中…
後で言う新潟行く日の朝に学校でトップページの絵を考える…
うーん、なんだかなぁと思いつつver.1.0が完成。
トップページをもう少しなんとかしようと思い、新潟から帰ってから更に撮影。 
いろいろ材料をのっけて撮影。
今のウェブサイトはこれの写真を使ってます。

こんな感じで色々実験しながら作って行きました。(思いの外制作過程が伝わらない)
作品のアーカイブものっけてあるのでぜひぜひ見てね。

なんかこれ作ってみて思ったけど、ウェブサイトで取り扱うコンテンツをどう翻訳してエフェクトにするかみたいなのが好きなのかな。
ちなみにこの展示会は「見えそうで見えない」とか「材料感」みたいなのを自分なりに解釈してます。





[ 新潟旅行 ]
大地の芸術祭に行って来ました。これは写真で。(手抜き)
先輩とか先生とかが絡んでる中原佑介のコスモロジー。
ほぼこれとボルタンスキー目当てで行きました。
圧倒される物量…。すごい居心地がよくて不思議でした。
一番好きかもしれないポチョムキン。
良い空間だなぁ。
ボルタンスキーのNo Man's Land
心臓音がなんか苦しくなるような空気が漂ってました。


[ 宮古島 / 神戸 ]
これはゼミの出張で行きました。
宮古島は島の良さを伝えるコンテンツをフィールドワークを通して考えて、プレゼン。
7案くらい考えて数で勝負しました。
いろいろおもしろい案が出てきて先が楽しみです。

神戸はちょうど今日台風から逃げるように帰ってきたのですが、上記の[ START ON AIR! ]の展示に行って来ました。
EC2012っていうイベント(?)に出展しました。
今後デザイナーズウィークとかにも出たりする予定なので、いろいろ感想を頂きながら、次へ反映していこうと思います。

いろんな人が見に来てくれて概ね好評でした。



そんなこんなで密度の濃い一ヶ月を過ごしました。死にそうですが来月からは働いたりするので無理しないように頑張りたいです。
卒制ももう少し報告できる形にしたいな…。

ではでは。

2012/08/20

MMMに行ってきたよ。

めちゃくちゃ久しぶりになっちゃった。
友人とともに水戸芸術館とひたちなかで行われているMMM みなとメディアミュージアムに行って来ました。

そういや先週はハラミュージアムアークと高崎市美術館にも行きました。
いろいろ展示会やら美術館やら、パブリックアートやら見て回っています。

この塔があるとこが水戸芸術館です。

 とりあえず今回のメインの話題は「MMM みなとメディアミュージアム」
公式ウェブサイトはこちら

作品ごとの感想はいろいろあるんですが、なにがすごいってこのイベントを開催するまでを学生主体で行っていることです。

学生だからできることが少ない = 学生だけでやることがすごい
なんて野暮なことは言いません。
ただ学生という"身分"は便利であると同時に、責任能力ってのがなかなか証明しづらいです。

責任能力って難しいですよね。
言い換えるならそれは「信頼関係」の証明みたいなもんで、相手と自分だけで成り立たせるには、学生はまだまだ若いってことなのでしょうか。

素敵な線路でした。(那珂湊駅近く)


ちょっと、というかかなり話が一旦脱線しますが、
最近の世の中、シビアに生きることが求められているような気がします。

他人の良い所を盗み、自分を磨き、それをアピールする。
それだけではなくて、他社とのコミュニケーション能力も万全に備えている。
みんながそんな人にならねばならない。

お金なんていらない、生きがいだもん。なんて言っちゃいけない。
きちんと稼げもしないのに、守るべき者をどうやって守るのさ。

まぁ結構大げさに言っていますが、天災しかり、就職しかり、なんだかとにかくシビアに、他者にも自分にも厳しく生きることを世の中から迫られているような気がします。

上ではお金の例えを出しましたが、これは逆のことも言えて、
"お金で買えない価値のあるものをシビアに追い求める"
みたいなこともあるような気がします。

だから例えば休日に友人と遊べばその写真をSNSにアップして共有し、そこからこぼれ出る雰囲気に、お金で買えない価値を自分でつけているのです。
(別にアップすることをディスっているわけではないです、念のため)

これは老若男女問わず、多かれ少なかれすべての人間に当てはまるような気がします。

若い人は適応能力が高いから、結構あっさり順応しちゃうのかもしれません。
でもすべての人間が、わかりやすくシビアに生きれるかというと、多分そうじゃないんだと思います。


むしろ、芸術とかってそうじゃない人向きのマイペースまったりなものですよね。
理解されるか分からないけど、これは美しい、楽しいに決まってる。ほら見てごらんよ、みたいな。

そこに責任能力が関わってくるのかーっていう。


あ、話がやっと戻ってこれました。

パブリックアートみたいに呼ばれるものの、窮屈なポイントなのかもしれません。
いや、責任くらいとれるものにすればいいじゃないと思うかもしれませんが、話はそんな簡単じゃありません。


責任は信頼です。
信頼ってどう示すものなんでしょうね?

そこにお金っていうワードが出てくると、急に暗雲が立ち込めます。

シビアに生きている人たちに合わせようとすると、そこは避けては通れない問題なんだと思います。
物質として存在している作品は、そもそもその物質にたいていお金がかかってできていますし。


お金だけじゃありません、"お金で買えない価値のあるものをシビアに追い求める"という形で、信頼を示さなくてはいけない時もあるかもしれません。

例えばどれくらい人が来たのか、とかね。


まぁ、あげ始めればキリがないのですが、そんなプロでも困っちゃうことを、やっぱり学生にも求められるわけで。
そういう意味で、MMMは本当にすごいと思います。

すべてのハードルをクリアしていた、とはさすがに言えませんが、4年目という歴史や、共催や後援に連なる名前を見る限り、やはりこのイベントはひたちなかという土地の中で、「信頼」を少なからず得ているんだろうなと思います。

そしてそれは、大人もついていくのに必死なシビアな世界の中で起きていることなんだなと思うとなんだかすごい発見です。




……眠いのにむりくりブログ書いたら案の定ひどいことになってしまいましたが、とりあえず思っていることを書きました。


アートがあるところに芸術祭が生まれるのでしょうか。
空いた土地にだれかが芸術祭を持ち込んで、そこにアートが生まれていくのでしょうか。

お金がないからシビアな世界になるのでしょうか。
むしろお金のあるからシビアになるのかもしれませんね。

みんなもっと優しくなるのに、きっとアートはどこかで作用できると信じたいなって思った旅でした。



作品の紹介が全然できなかった…。
みなとカフェのかき氷めっちゃおいしかった。

お時間ある方は水戸芸術館と共に足を運んでみてはどうでしょうか。

2012/07/16

分からないことを分かる

先が読めない展開、予測できない災害、お金に代えられない価値 etc...
"分からない"ということは良いことと悪いことが表裏一体の不思議な状態です。
Google先生やyahoo先生に聞けばどこになにがあるのか、それはどんなもので、どんな歴史があるのか。
究極の百科事典として機能していて、利用したこと無い人なんかこんなブログ見ていないですよね。
なんでも"分かる"、知ることの出来る便利な時代です。



ちょっと脇道に逸れますが、なにかとシェアシェアと、何かあるとすぐに「共有」したがるのが最近の流行ですよね。
facebookとかタグ付けするにしてもいきなり自分の写真がネットに放り出されるのは、未だに慣れない感覚です。
「共有」というのはその先に「理解」されることを前提としたものだと思います。
「理解」ってのはそのまんま、"分かる"ってことです。

旅をして写真を撮って、それをネットに放流して"分かって"もらう。

そんなことを繰り返している間に、なんでも自分の中に許容することができるという錯覚に陥ってしまいそうだなと最近よく思います。

自分の中に許容できるものがたくさんあると錯覚すると、なんでも共感できる、つまり"分かる"ことができて、好きになれると思ってしまいます。


でもなんでも好きになれるって、なんにも好きになれないことだと思います。
同じようになんでも"分かる"っていうのは、なんにも"分からない"ってことなんです。
( 持論ですよ、持論。 )



何故、なんでも"分かる"っていうのは"分からない"ことなのか。
分からないものの存在を否定しているように感じるからです。

好きになれない、許容できない、共有されても共感できないことは多々あるはずです。
人づてに聞くとそういう感覚って手に取るように感じられるのに、ネットとかフラットな舞台に情報を投げるとなんとなく鈍りがちですよね。

でもそういう"分からない"ものがあるからこそ、いろいろな表現があることが理解できて、そこに楽しさ、面白さを見出せるのだと思うのです。



ネットでそこかしこに見る"炎上"も同じような理屈で、
自分はだいたいのことをネットで理解できる、受け入れることができる、分かることができると錯覚してしまっていると、
いざ本当に分からないものが出て来た時にものすごいアレルギーが出てしまうのだと思っています。(最近はいじめ問題がいまだに話題に上がっていますね)

だから分からないものは徹底的に潰して良い、無かったことにして良いみたいな言動が出来ちゃうわけです。自分が何も分かっていないのも知らずに。


最近読んだ本にこんな本があります。

虫眼とアニ眼


宮崎さんと養老さんの対談形式の本なのですが、最後の方に養老さんのジブリ作品の考察があり、宮崎作品の解説を頼まれた時のエピソードが載っています。
宮崎作品はアニメであって、アニメに解説なんか要らない。子どもだってわかるから喜んで見ている。その意味で私は、いまここで、じつは不必要な解説を書いている。要らないものをなぜ書くかというなら、頼まれたからである。なぜ頼まれるかというなら、頼むほうが、なにか解説らしいものが要ると思っているからであろう。こんなものが要ると思っていることと、なぜ賞をもらったかという質問は、たぶん根っこでつながっている。アニメがアニメとして、一人で立つはずがない。そう思っているらしい。つまりアニメなんて、信じられない。どこかでそう思っているに違いないのである。

賞というのはかの有名は『千と千尋の神隠し』がベルリンで金熊賞をとった時の話です。

すべては語られる、理解されて言葉に分解され、人に分かるようになると信じてやまない人たちは、アニメというジャンルそのものすらを否定するかのような振る舞いをしてしまうという話です。

この後、「作品の意味を言葉にできない、そんなものに価値があるのか」という問いに対し、
「いまの人って、そういう風にすぐ考えるらしい。すべては意識だ。すべては言葉になるはずだ。結局はそう思っている。だけどわかりきった自分の身体だって、すべて意識にはならないでしょうが。ある種の想いが、すべて言葉になるか。すべてが意識になるというなら、あらゆる芸術はなんのためにあるか。作品の解説のほうが、作品自体に勝るとでも良いのだろうか」

なるほど、というかまぁそうだよねって感じです。
本当の意味で分かるということは、分からないものも許容するという、自分の器を大きくする、ということなのかなと思います。



芸術祭の時に書いた、
「分からないものを許容する」ということは、必ずしも我慢ではない
ってことにつながるのかなって思います。
分からないことを分かってもらえるような作品制作なり研究なりしていきないなーってな感じで、今日はここまで。

ではではー。


2012/07/07

いじめとか場所の話とか。

卒制では、ウェブを使って居心地の良い場所を作りたいと思っていろいろ頑張っているわけですが、こうあれば居心地maxだ!みたいな話だけじゃなくて、こうだと最悪だ…みたいなことも考えねばなぁと思ってちょうど大津市のいじめの話がいろいろあったので読んでみました。

記事をいくつかピックアップして自分なりにまとめたので、興味が湧いたらソース元をちゃんと読んでね。



【関西の議論】“自殺練習”の衝撃 事実隠す市、沈黙続けた女性市長 大津の「いじめ死」で新展開  - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120707/waf12070707010000-n1.htm
市の教育委員会の落ち度を責めているのかと思いきや、涙ながらにいじめ体験の告白をしたくせに杜撰な対応をしてる市長へのバッシング。論点があっちこっち。



例のいじめのあれについてメモ - 情報の海の漂流者 (id:fut573 / @fut573)
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20120706/1341581441
いじめの調査が学校が行うことへの疑問から始まり、いじめの対策についての現状への意見、最後にいじめという情報の扱われ方について述べられていたり。
ドライな感じですが最後の問いかけは怖いですね。
(以下本文最後より引用)
今回の大津のいじめ自殺問題が、これだけ騒がれているのは何故なのだろう?
自殺練習疑惑というセンセーショナルないじめ方が原因?
では、この人が「ありふれた」いじめにより死を選んだ場合は、話題にもならずに埋没していたのだろうか?  
ただ死ぬだけでは、注目されず、極めてニュースバリューが高い死に方をしない限り、自殺をしても騒ぎにもならないのだろうか?
ただ、まるでマスコミにとりあげられなければ、たいていのいじめの実態は闇の中にぽいっ!みたいな印象を与える言い方はどうなのかね。
騒ぎにならなくても当たり前に対策はとられるんだよね?ね?
教師志望の人がもし見てたらほんと頼むね。僕もできるだけ頑張るので。



森口朗公式ブログ  2009-05-20 この「いじめ対策」はすごい!
http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20090520
一転して学校側のいじめ対策の実用的な話。
これちょっと前にもはてなでトップ来てたし、とりあえず現状をなんとかしたい!っていう気持ちを持っている人は多いんだろうなぁ。
加害者へのその後の対応が書いてないのがなんとも言いがたいけど、いろいろ勉強にはなる。



じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/07/post-60a3.html
#Zenback @zenbackさんから
難しくて三回くらい読んだけど、正直こっちの方が目から鱗だと思う。
小学生なりにこういうこと考えて常に行動してる子ってめちゃくちゃ多いと思う。
いじめている人数、傍観している人数、その中でいじめに異を唱えたいという潜在欲求のある人数から、自分の立ち振る舞いがどこまでなら上手くいくか、みたいな。

これをなんか方法論として分かりやすく伝えられたらもっとスマートに対策ができるんじゃないかなぁ。



RT @yutori2ch: 【大津・中2自殺】「実は、電話で何度か相談があったんだよね」 自殺直後、担任が生徒数人に話す
http://bit.ly/N6QMuZ
みんな大好きまとめサイト。
2chに代表される掲示板の怖いとこって、同じテンプレで同じ書体で書かれていることによってまるで全体が一つの人格を持っているかのように見えることだよね。
だからみんなが叩いてれば、それが正義。
いや、正義とかいう胡散臭い言葉よりももっと強い、"重力"みたいな束縛感なんだろうな。



"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠 (id:p_shirokuma / @twit_shirokuma)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120707/p1
いじめとネットの炎上とかを絡めたお話。個人的にはすごい共感できる。もっと寛容になれないのかな、っていつも思う。
あと、大人が道を示すことがなんにしても長期的で教育的な対策だって主張もすごい分かる。


↑を読んで思い出した誰かさんのツイート。RTで回って来ただけなのでフォローしてない人のつぶやき。
(つぶやきのみ引用)
ていうか生徒指導という名の校則縛りや人格形成という名のパワハラも問題だけど、部活はマジで廃止した方がいい。部活のせいで子供が学校に縛られる時間が長くなり過ぎて学校が世界の中心になってしまう。そこで友達が出来なかったら世界の中心で孤独、みたいになってしまう。

いやいやいや、廃止って。

部活以外の選択肢があるってことには大賛成。あんなのやりたいやつがやればいいんだよ。(ちなみに僕は部活大好き。過程に意味を見出すって大切なことだよ。)

でも廃止する必要ないでしょ。なんで部活以外の選択肢があるって親が教えてあげないの?責任をシステムの方になすりつけちゃうの?
世界の中で孤独って、親はどこ行っちゃったの?先生は?兄妹は?
部活廃止して、今の子ども達はどこで結果を省みない一生懸命さを学ぶの?

大人が道を教えてあげたり、無言で示してあげたりしなきゃ気付けないよ。だって子どもなんだし。
学校では友達いないけど塾だとうまくやれる子ってのもいるし、子供内でのパワーバランスっていうのは微妙なもので、学校という成績や親同士の付き合いや、様々なしがらみのある学校と、学校の外ではパワーバランスが全然違う。子供には学校以外の場所で長く時間を過ごせる場所を確保してあげた方がいい
まぁこういったつぶやきもあるので、「廃止」ってところはどうでもいいんだろうと思います。
コミュニティを自分の中に多重に持てるようにするっていうこの人の考え方は、すごく共感できます。
ただ、学校って場所がもうだめなんだよねーみたいな言い方は好きじゃない。
結局それが主流になっちゃったら同じ末路をたどるわけだしね。


いろいろ書き散らしてしまいました。
引用 + コメントを一つの単位でささーっと流し読みしてもらえれば嬉しいです。


読んで回った感想としては、場所にもそこにいる人々によって"場所の人格"のようなものが形成されいくんだな思いました。
空気感みたいに言うと分かりやすいのかな。

いじめが起こる教室内には、生徒と教師以外にも、その場の空気という第三の人格が現れ、時にその人格はいじめを煽るような働きをする。
怖過ぎるよね、確実に個人ではどうしようもない。
ただ、いじめのない普通のクラスってのはその空気、場所の人格によっていじめが抑制されているというところもあるのも事実なわけで。

確実に言えるとすれば、その場所の人格を正してあげたり、導いてあげられるのは、子どもではなく大人だよねっていうこと。
そのためにすべきなのは、加害者の名前をtwitterに晒すことではないよねっていうこと。
怒りをあらわにするのは勝手だけど、その矛先を誰かに向けた瞬間、あなたの場所の人格は歪み始めてるよっていうこと。


難しいけど、こういう話もしっかり消化していきたいな。