"分からない"ということは良いことと悪いことが表裏一体の不思議な状態です。
Google先生やyahoo先生に聞けばどこになにがあるのか、それはどんなもので、どんな歴史があるのか。
究極の百科事典として機能していて、利用したこと無い人なんかこんなブログ見ていないですよね。
なんでも"分かる"、知ることの出来る便利な時代です。
ちょっと脇道に逸れますが、なにかとシェアシェアと、何かあるとすぐに「共有」したがるのが最近の流行ですよね。
facebookとかタグ付けするにしてもいきなり自分の写真がネットに放り出されるのは、未だに慣れない感覚です。
「共有」というのはその先に「理解」されることを前提としたものだと思います。
「理解」ってのはそのまんま、"分かる"ってことです。
旅をして写真を撮って、それをネットに放流して"分かって"もらう。
そんなことを繰り返している間に、なんでも自分の中に許容することができるという錯覚に陥ってしまいそうだなと最近よく思います。
自分の中に許容できるものがたくさんあると錯覚すると、なんでも共感できる、つまり"分かる"ことができて、好きになれると思ってしまいます。
でもなんでも好きになれるって、なんにも好きになれないことだと思います。
同じようになんでも"分かる"っていうのは、なんにも"分からない"ってことなんです。
( 持論ですよ、持論。 )
何故、なんでも"分かる"っていうのは"分からない"ことなのか。
分からないものの存在を否定しているように感じるからです。
好きになれない、許容できない、共有されても共感できないことは多々あるはずです。
人づてに聞くとそういう感覚って手に取るように感じられるのに、ネットとかフラットな舞台に情報を投げるとなんとなく鈍りがちですよね。
でもそういう"分からない"ものがあるからこそ、いろいろな表現があることが理解できて、そこに楽しさ、面白さを見出せるのだと思うのです。
ネットでそこかしこに見る"炎上"も同じような理屈で、
自分はだいたいのことをネットで理解できる、受け入れることができる、分かることができると錯覚してしまっていると、
いざ本当に分からないものが出て来た時にものすごいアレルギーが出てしまうのだと思っています。(最近はいじめ問題がいまだに話題に上がっていますね)
だから分からないものは徹底的に潰して良い、無かったことにして良いみたいな言動が出来ちゃうわけです。自分が何も分かっていないのも知らずに。
最近読んだ本にこんな本があります。
虫眼とアニ眼 |
宮崎さんと養老さんの対談形式の本なのですが、最後の方に養老さんのジブリ作品の考察があり、宮崎作品の解説を頼まれた時のエピソードが載っています。
宮崎作品はアニメであって、アニメに解説なんか要らない。子どもだってわかるから喜んで見ている。その意味で私は、いまここで、じつは不必要な解説を書いている。要らないものをなぜ書くかというなら、頼まれたからである。なぜ頼まれるかというなら、頼むほうが、なにか解説らしいものが要ると思っているからであろう。こんなものが要ると思っていることと、なぜ賞をもらったかという質問は、たぶん根っこでつながっている。アニメがアニメとして、一人で立つはずがない。そう思っているらしい。つまりアニメなんて、信じられない。どこかでそう思っているに違いないのである。
賞というのはかの有名は『千と千尋の神隠し』がベルリンで金熊賞をとった時の話です。
すべては語られる、理解されて言葉に分解され、人に分かるようになると信じてやまない人たちは、アニメというジャンルそのものすらを否定するかのような振る舞いをしてしまうという話です。
この後、「作品の意味を言葉にできない、そんなものに価値があるのか」という問いに対し、
「いまの人って、そういう風にすぐ考えるらしい。すべては意識だ。すべては言葉になるはずだ。結局はそう思っている。だけどわかりきった自分の身体だって、すべて意識にはならないでしょうが。ある種の想いが、すべて言葉になるか。すべてが意識になるというなら、あらゆる芸術はなんのためにあるか。作品の解説のほうが、作品自体に勝るとでも良いのだろうか」
なるほど、というかまぁそうだよねって感じです。
本当の意味で分かるということは、分からないものも許容するという、自分の器を大きくする、ということなのかなと思います。
芸術祭の時に書いた、
「分からないものを許容する」ということは、必ずしも我慢ではないってことにつながるのかなって思います。
分からないことを分かってもらえるような作品制作なり研究なりしていきないなーってな感じで、今日はここまで。
ではではー。
いつも更新楽しみにしております。
返信削除アニメの価値は分かるけど、学術研究の価値が分からない人。
研究は分かるけど、政治は分からない人。
政治は分かるけど、文化は分からない人。
文化は分かるけど、教育は分からない人。
能動的に、主体的に理解しようとできるトピックと、
自分の意識しないところで受動的に自分の「認識」の器がかたちづくられていくトピック。
全てに能動的に生きられる人などいない以上、「分かるもの」同士を闘わせて排斥しあうのを避けるためには、「分からないもの」とどう気持ち良く―できれば楽しく、付き合っていくか、が大切なのかなと思います。
話は変わりますが、分別のゴミ袋みたいな言葉というのが、いくつか存在すると思います。
分別して脇においとくと、自分の目が触れないところで業者さんが回収し、見えないところで処理してくれるようなものです。それによって自分の生活から、それを退場させることができます。
それは例えば「アート」がそうだと思います。
「これはアートだ」と認定すれば、もうそれについて考えなくて良いような作用が働く言葉。
「なんか分かんないけどアートだから!」
そういってぶんなげられて届かなかったもの、いっぱいあると思います。
このときの「アート」に似た役割の言葉の使い方はたくさんあります。
「いじめ」や「炎上」もそうかもしれないし。もしかしたら「今のひと」とかもそうかもしれない。
分からないものをくるんで捨てなくてもよくって、
分からないものとしてどう一緒に生きていくかっていうのは、
美術館や大学などのアカウンタビリティとはまた別に、重要なことだなと感じました。
長々とすみません。
拙い感想ですが、エントリーを読んで考えたことでした。
多くの示唆を頂きました。